2013年12月15日

[南部戦線]1759年10〜12月 10/11〜20

■Saxony-Thuringia-Franconia-Bohemia西部
<10/11〜20>

View 1759年ドイツ南部戦線10月 2 in a larger map

 10月12日、AustriaのGemmingenとBrentanoの軍は
 Dahlenに移動した。

 10月15日、AustriaのBuccow軍はSchildauにいる
 PrussiaのRebentisch軍に接近し、
 Wildschuetzへ撤退させようとした。
 Wildschuetzに退いたRebentisch軍は
 さらに同日夜にTorgauへ撤退し始めた。

 10月16日、HenryはFinck軍(4bns and 5sqns)を
 Rebentischへの援軍として派遣した。
 Henry軍は同日夜にStrehlaを出発し、
 翌日にはTorgau近くで宿営した。

 10月17日、HenryはLeipzigとの連携を保つ為に
 Finck軍(14bns and 25sqns)をEilenburgに向かわせた。

 10月18日、Daun軍はStrehlaで宿営し、
 KleefeldとRiedの軽兵をTorgauの近くへ派遣した。

 10月19日、Daun軍はBelgernまで進軍した。

 Austria軍が近づきつつある中、
 HenryはFinck軍の一部を呼び戻した。


posted by Frederi at 22:51| Comment(0) | ドイツ南部戦線(1759) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月23日

[南部戦線]1759年10〜12月 10/1〜10

■Saxony-Thuringia-Franconia-Bohemia西部
<10/1〜10>

View 1759年ドイツ南部戦線10月 1 in a larger map

 10月1日、HenryはDaunがDresden周辺での動きを
 活発化させ始めているという知らせを受けて、
 Finck軍の救援にOzttritz(5bns,2sqls)を送った。
 Ozttritz軍はTorgauでElbe川を渡った。

 AustriaのHadik軍とBrentano軍はTannenberg
 に到着した。

 10月2日朝、Daun軍はMeissen近くのFinck軍の
 攻撃を始めたが、Finck軍は既に夜のうちに退却していた。
 Finck軍はStrehlaまで移動した。
 Henry軍はTorgauの前面に展開し、前衛は既にBelgernまで達していた。
 HenryはFinck軍との合流を意図していると見られる。

 10月3日、Daun軍はMeissen北西のLommatzschまで
 進軍した。AustriaのBrentanoはStrehlaのFinck軍に
 圧迫をかけ始めた。
 Henry自身はTorgauでElbe川を渡り、
 Belgern付近まで進んだ。

 10月4日、Henry軍はStrehlaに到着し、Finck軍と合流した。
 合流したPrussia軍は53歩兵大隊(16擲弾兵)、103騎兵大隊
 となっていた。
 Buelow軍はLeipzigとの連携を維持する為に
 Eilenburgに駐屯していた。

 DaunはHenry軍を上回る軍を保持していたが、
 Henry軍を直接攻撃する事はあきらめ、
 Saxonyから無難に退却させる方法に転換したもよう。
 まずはPrussia軍の武器弾薬が集まっているTorgau
 に狙いをつけた。
posted by Frederi at 14:22| Comment(0) | ドイツ南部戦線(1759) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月10日

1759年 9月21日 Combat of Korbitz

【Combat of Korbitz】
 1759年9月21日、Meissen近郊で
 FinckとWunsch率いるPrussia軍と
 HadikとZweibrücken率いるAustro-Imperial軍が戦闘となった。

 午前10時頃、Dresden方面から進んできた帝国のZweibrücken軍が南から
 Prussia軍を攻撃し始める。

 南西から進んできたAustriaのHadik軍はMunzigとMiltitzの近くを通り、
 KrögisとStroischenの間に展開した後、
 昼過ぎからWunsch軍より西に配置されていたFinck率いる
 Prussia軍へ攻撃を始める。

<マップ>

View Combat of Korbitz in a larger map

 さらに、HadikはBrentanoをPrussia軍右翼へ送った。
 Finckは擲弾兵4歩兵大隊などをRebentischに任せ、これに対応。
 Brentanoは撃退された。
 さらに、 RebentischはHadikの砲兵隊の1つを沈黙させた。
 
 HadikはHadik軍中央のLambergに反撃を指示した。
 しかし、激しい戦闘後、Lambergは撃退された。
 Hadikは後退しつつある歩兵を支援する為、
 左翼に配置されていたSchallenbergの騎兵へ
 反撃を指示した。
 Schallenbergの騎兵は展開してきたPrussiaの騎兵を撃退し、
 Prussia歩兵へ注意を向け、攻撃を始めた。
 2回目の攻撃の後、Markgraf Carl(IR19)は
 擲弾兵の支援のもと、撤退した。
 攻撃はその後数回行われ、Prussia側は大砲を数門奪われた。
 しかし、最終的にはPrussia歩兵はAustriaの騎兵を撃退した。
 
 夕方、Austro-Imperial軍は戦場から撤退した。

<両軍の被害>
 ●Prussia軍
  死傷者:約1300
  
 ●Austro-Imperial軍
  死傷者:約1700(捕虜約500を含む)
posted by Frederi at 15:42| Comment(0) | ドイツ南部戦線(1759) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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