2013年04月11日

1759年 8月後半〜9月 東

<8月後半>

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posted by Frederi at 23:17| Comment(0) | ドイツ東部戦線(1759) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月20日

1759年 8月12日 Battle of Kunersdorf【2】

<1759年8月12日午前8時頃>
Kunersdorf_002.jpg

Kunersdorf周辺に展開している露墺軍に対して、Prussia軍はその北にいたが、
一部の軍(Finck)を除いて、Prussia軍主力はKunersdorf北東の森林を抜けて、
露墺軍の東南に出ようとしていた。

しかし、Frederick IIはその行動の不利に気が付く。
露墺軍の東側の防衛は強化され、
露墺軍の東南は池や湿地帯があり大軍の展開が難しい状況にあった。
露墺軍の南側も防衛措置が施されている為、一軍が東南を通り抜けても、
そこからの進撃が勝利に繋がる可能性は低い事がわかった。

Frederick IIはまず露墺軍の東側のMuhlbergを攻撃する事を決意した。

<1759年8月12日午前12時前>
Kunersdorf_003.jpg

南北に伸びたPrussia軍は露墺軍の東側に対して進んでいた。
午前11時半頃、数箇所から砲撃を始めた。

午後0時半、Frederick IIは前衛の8歩兵大隊(含6擲弾兵大隊)に攻撃を指示した。
15分ほどで攻撃は成功し、Muhlbergにいたロシア軍は撤退した。

<1759年8月12日午後1時前>
Kunersdorf_004.jpg


<1759年8月12日午後3時頃>
Kunersdorf_005.jpg


<1759年8月12日午後4時半頃>
Kunersdorf_006.jpg


<1759年8月12日午後5時半頃>
Kunersdorf_007.jpg

Prussia軍左翼騎兵が第2波の準備をしているところへ露墺軍の騎兵に攻撃され、壊走した。

この余波がPrussia軍左翼歩兵にまで広がり、
その壊走・混乱を見たPrussia軍右翼まで動揺が広がり、
Prussia軍全体の秩序が崩壊し、全軍の壊走が始まった。

Frederick IIはある歩兵連隊の軍旗を持ちながら、
立て直しを呼びかけたが、無駄であった。


結局、約3千ほどの将兵とともにFrederick IIはOder川西岸のReitweinまで撤退した。

露墺軍65000とPrussia軍43000の対決は露墺軍の勝利となった。
Prussia軍の損害は21000にもなった(死傷者19000、捕虜2000)。
ただ、露墺軍の損害も16000に上った(ロシア軍14000、Austria軍2300)。
posted by Frederi at 20:52| Comment(0) | ドイツ東部戦線(1759) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月19日

1759年 8月12日 Battle of Kunersdorf【1】

<1759年8月10〜11日>
Kunersdorf_001.jpg

Frankfurt an der Oderで合流を果たしたSaltykov率いるロシア軍(約5万)とLoudon率いるAustria軍(約1万5千)
はFrankfurt an der Oderの東に展開していた。

Frederick II率いるPrussia軍はFrankfurt an der Oderの西側を北上し、
Frankfurt an der Oder北のReitweinからOder川を渡り、
北からロシア&Austriaの連合軍に近づこうとしていた。
posted by Frederi at 21:54| Comment(0) | ドイツ東部戦線(1759) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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